山岳技術習得のために

 新人募集をするといろいろなバックグラウンドの方から問い合わせがあります。

 その中には勘違いされていると思われるケースも多々あります。

 アルパインクライミングに必要な技術は運転免許とは違い、単元をこなして終了したからといって実戦で使用できるわけではない、ということです。

 また、「教えるための技術」を持たない指導者にあたると、なにがどのように必要になるのか、という点が伝えられず、考えるポイントも示されないので、単に技術を見様見真似で「真似しているだけ」という状態になります。手順を覚えるだけでは応用可能な技術の習得とはならないため、当会では少人数でがっつり面倒を見るという体制になっています。

 教える側と教えられる側、双方の安全を確保するためには、残念ながら人数も絞らざるをえません。

 仕事をされている方であれば、仕事を教えてもらうにしても、職人さんのように「見て覚えろ」といわれてもそうすぐにはマインドセットをシフトできないという経験もあるかもしれません。

 これは日本語を話せるから日本語を教えられるかというとなかなかそうはいかないのと同じことです。日本語を見て聞いて覚えても、間違いのない完璧な日本語力に到達する外国人は少なく、多くが間違いを指摘されることなく不自然な言葉遣いになってしまっているのに気づいたことはありませんか。山岳技術も似た側面があります。日本語が多少たどたどしくても意思疎通ができればいいのですが、山岳技術に決定的な「過誤」があると、命が危険に晒されます。

 山岳技術では、ポイントを押さえ、「ここを外したらマズイ」という点を逐一指摘してもらいながら、段階的に技術を身につけていく必要があります。そのための指導技術であり、アルパインにいける人全員(日本語を話せる人)が指導者(日本語教師)としてアテになるかどうかは未知数だということを自覚していただきたいと思います。この点、日本には体系的な指導者認定レベルはありません。任意団体が出している指導資格があまりアテにならないことは、那須の雪崩事故でもよくわかることかと思われます。ですから、当会の指導技術についても会員となる方が判断する必要があります。

 なお当会ではUIAA国際山岳連盟から出ている『総合登山技術ハンドブック』(JWAFのHPから購入可能)に記載されているすべての事項を身につけていないとアルパインクライマーとしては十分ではない、と考えていますので参考になさってください。新人育成の過程でこのハンドブックに記載の技術をすべて身につけ、登攀力を磨くように指導していますが、身につけられるかどうか、必要とされるレベルに到達できるかどうかは個人次第であり、指導とは別問題となります。体力がなければ日常的にランニングしたりハイキングに行ったりする必要がありますし、登攀力がなければクライミングジムに通う必要があります。記憶力が悪かったり、理解力がなかったり、自分のミスを認めず人を攻撃するなど性格に問題があったり、コミュニケーションに齟齬がある場合は・・・残念ながら対応できないケースもあります。

 UIAAハンドブックに書いてある事項の受け売りですが、アルパインリーダーとは、ある意味、飛行機のパイロットのようなものです。リーダーがパーティーメンバーの命を預かると言っても過言ではありません。

 こうした覚悟なしに安易なパーティー編成をすることを当会では推奨していません。

 飛行機会社を選ぶにしても信頼できるパイロットの操縦する飛行機に乗りたいと思いませんか? 飛行機の場合は航空会社の格付けで選択ができますが、アルパインの場合はそうした格付けは入手できませんので、リーダーを選択するにあたっては十分な注意が必要です。とはいえ、メンバーにもフォロワーシップが求められます。そもそもアルパインパーティーの場合はフォローはお客ではありません。副操縦士の位置付けです。

 

 山岳技術とは一見無用に見えますが、以下のような考え方をあげておきます。内田樹さんのブログからの引用です。どのように山に関連するかわかっていただけると幸いです。

 

 知的無能が指導者の資質として肯定的に評価されるような統治システムのことを「イディオクラシー」と呼ぶ

「愚者支配」である。デモクラシーが過激化したときに出現する変異種である。

 フランスの青年貴族トクヴィルは二百年前にアンドリュー・ジャクソン米大統領に面会した後、その印象をこう記している。「ジャクソン将軍は米国人が彼らの統領に二度選んだ人物だが、性格は粗暴、能力は凡庸、その全経歴を閲しても、自由な人民を統治するために必須の資質を有していることを証明するものは何もない。」(『米国における民主制』)
 ではなぜ人民は彼を統治者に選んだのか? それは支配される人民と知性・徳性において同程度である支配者の方が「害が少ない」と考えたからである。凡庸な統治者は人民と対立してまで貫き通したい政治的信念を持っていないし、貫く実力もない。